海からの風に潮の香りが混じっている。澄んだ空と白いカモメ。弧を描く砂浜と穏やかに寄せる波。
11月の海も悪くないな。皆生温泉の遊歩道を歩きながら、田所大河は思う。
皆生は海に面した温泉街だ。「海に湯が湧く」と歌われているぐらいだから、温泉の湯はほのかにしょっぱい。海岸沿いにホテルや旅館が並び、遊歩道には所々にウッドデッキがしつらえてある。
柔らかい日差しの中、デッキチェアに座った老夫婦が、手をつないで海を眺めていた。軽く頭を下げて通り過ぎると、老夫婦も笑顔で会釈してくれた。
大河の祖父の修造(しゅうぞう)は、とりだい病院から皆生の高齢者施設に移った。意識は戻ったが、体を動かすことや話すことはできない。それでも、大河が会いに行くと、うれしそうに見えるし、何か言いたそうに口元を動かすこともある。
「田所くんのことはわかってると思うし、リハビリ次第では言葉が出るようになるかもしれないよ」
同級生の矢野ミチルは、そう言ってくれた。父も母も、「もう歳だから」と期待していないようだが、大河は一言でも二言でも話せるようになってほしいと思っている。
「わしが子どもの頃の皆生はな、どこまでもどこまでも砂浜が続いちょった。あたり一面が松林だった。松林には、松露というコロンとした茸が生えちょってなあ、醤油で煮て食うと旨かったもんだ」
祖父の話を繰り返し聞いたせいで、大河の頭の中には、<皆生温泉=おとぎの国>のイメージが残っている。松林の中の松露の家で、小人たちが仲良く暮らしているみたいな――。
どこまでも続いていた砂浜は小さくなり、松林の松露は姿を消したけれど、大河にとって皆生温泉は今もワンダーランドだ。海に温泉が湧くというだけでワクワクするし、近年はイベントも増えているらしい。
いま向かっている「観月楼(かんげつろう)」のオーナーから声をかけられたのも、10月にあったイベントだった。砂浜ではビーチスポーツや凧揚げが行われ、遊歩道に食べ物や手作り雑貨の屋台が並んだその日、大河は勤め先である「ラ・マンチャ」のキッチンカーで、パエリアを作っていた。
地元産の白イカやアオデガニを使った、和風パエリアは好評だった。そろそろ売り切れが近くなった頃、40くらいのがっちりした男性が、「旨いね、これ。きみ、うちに来ない?」と大河に声をかけてきた。それが3年前にオープンしたという、「観月楼」のオーナー社長だった。
「田所さん、すごいですね。観月楼って、予約の取れない宿で有名だそうですよ」
一緒に来ていたアルバイトの女の子がそう言った。皆生以外にも、山陰エリアで複数の宿を経営しているらしい。戸惑いつつも、とりあえず話を聞いてみることにしたのだった。
「観月楼」は温泉街の端にあった。古風な名前の通り、古い料亭を移築したらしい建物は、レトロで重厚な雰囲気だ。
海に面したラウンジに案内されて、大河は驚いた。全面ガラスの向こうに海が広がっているのは予想できなくもなかったが、フロア全体が松林になっているのだ。
いや正確に言えば、松林の中にいるように感じさせる、3D映像を使ったバーチャル松林だ。しかし、幹の質感や木漏れ日の感じがリアルで、本物の松林にいるような錯覚におちいる。
「どうですか。100年前、つまり昭和時代の初め頃の松林を再現したんです」
オーナーの木島裕也(きじま ゆうや)が入ってきて言った。映像から抜け出たかのように近づいてきた女性が、テーブルにコーヒーを置いていく。
「驚きました。すごいですね」
大河は正直に答えた。もっとも、正直以外のことを口にできないのが大河なのだが。
「ありがとう。ここに来てくれたお客様には、ほかで味わえない体験を提供したいと思っていてね。料理もそうです。先月のパエリア、あれはきみの創作だよね」
「はい、ラ・マンチャの店長が好きなものを出していいと言ってくれたんで」
地元産の魚介を使ったパエリアにしてみたのだった。
「センスを感じたよ。この宿で提供する料理は、ネオ・オリエンタルをコンセプトにしていてね。もちろん、使うのは地元の厳選食材だ」
「ネオ・オリエンタルな料理……ですか」
「うん、和食の伝統にアジアンテイストを掛け合わせた感じ、とでも言えばいいかな。インバウンドのお客さんにも好評でね。きみのセンスに期待しているんだ」
「はあ……」
包丁の使い方がいいと言われたことはあっても、センスを褒められたことはない。調理補助しかさせてもらえなかったのだから当然といえば当然だが、身の程に合わない言葉のようで背中がムズムズする。
提案された待遇はよかった。勤務時間は今の店とそう変わらないのに、3倍近い給与をくれるという。
「どうかな」脚を組み、笑みを浮かべた木島が聞く。
「すごく有難いお話です。でも、少し考えさせてください」
迷う理由なんか一つもない。なのに、なぜか即答できなかった。
「いい返事を待ってるよ。きみとは前に一度会ったよね。がいな祭の夜に」
「はい、覚えていてもらってうれしいです」
矢野ミチルの元夫であることは、イベントで声をかけられたときからわかっていた。もちろん、それが迷う理由ではないのだが――。
外に出ると早くも晩秋の日は落ちて、オレンジ色の街灯があたりを柔らかく照らしていた。
※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
次回 #06 アーティスト村 は8月19日更新。乞うご期待!
日本海新聞ホームページにて毎週土曜日に掲載します。