立春の日の午後、田所大河は加茂川沿いを米子港に向かって歩いていた。歩道には、午前中に降った雪が残っている。わずか2センチほどだが、さすがに自転車を使う気にはなれない。それに雪化粧した街を歩くのも悪くない。
白壁の土蔵が並ぶ加茂川沿いは、歴史と下町風情を感じさせるエリアだ。おじいちゃん子だったせいか、大河は古い町並みや古木が好きで、この界隈をたまにぶらつく。加茂川から中海に出る市内周遊船に乗って、米子駅の近くまで行ったこともある。
「米子って水に囲まれた町なんだなあ」と、そのとき思ったものだが、これから行く「米子港ウォーターフロント」は初めての場所だ。大河が高校を卒業した12年前、そこは中海に面した広大な空き地だった。
「できたのは5、6年前かなあ。医療関係やIT企業のサテライトオフィス、リゾートホテルなんかがあって、まあ米子じゃ最先端の場所だよ」
ラ・マンチャのオーナーは大河にそう教えてくれた。レストランやショップが並ぶエリアもあるというが、「最先端って、あんまり得意じゃないんですよねえ……」と大河は小声で言った。
「まあ、そう言うな。マーケットもあって、獲れたての魚介類が手に入る。今の時期なら境港のハタハタやカレイ、中海のクロメバルやスズキ。田所はそういうの好きだろ?」
「はい、地元の魚介をどう料理するかは、考えるだけで楽しいですね」
「うんうん。だからそこに出す店をやってもらいたいんだけど、どうかな」
「え、俺ですか? でも俺、まだ入って半年ですよ」
昨年末、大河はパートから正規雇用になった。ラ・マンチャのオーナーは市内に3軒の飲食店を持っているが、経営者というより料理職人といったタイプで、大河はそこが好きだった。
「店といってもごく小さいものだけどね。4月オープン予定で準備を進めてるから」
その話を聞いたのが10日ほど前。今日は現地を見たいと思って来たのだが、意外なのは、エリア内の道路にも中海の水際にも多くの樹木が植えられていることだった。今は葉を落としている木が多いものの、春から先は小さな森みたいになるだろう。
「最先端というから、もっとガチガチの、無機質な空間を想像してました」
案内してくれる女性に言うと、「最先端は自然と共生することだと思いますよ。そうじゃないと、都会からここへ来て仕事をする意味がないでしょう?」という返事がかえってきた。確かにその通りかもしれない。
レストランエリアは、ガラスと木を組み合わせた造りになっていた。春から秋はガラスを開け、中海に接するオープンスペースになるという。
悪くない。いや、かなり最高なんじゃないか。映画で見た水上レストランみたいだ。小さいながらもこの場所で店をやれると思うと、ちょっとワクワクする。
レストランエリアから続くマーケットには、新鮮な魚介や地元野菜が並んでいた。
「今日は雪のせいで物が少ないんです」
案内の女性はそう言ったが、大ぶりのサルボウ(赤貝)など、ここでしか入手できなそうなものもあるし、お客さんもけっこう多い。
「こら、走っちゃダメよ」
声に振り向くと、3歳くらいの女の子が大河にぶつかってきた。母親らしい女性が「すみません」と頭を下げ、女の子が「ごめんなさい」と言う。「痛くなかった?」としゃがんで聞くと、白いダウンジャケットから出た首を左右に振った。二つに結んだ髪が、ウサギの耳のように揺れる。
大河は、少し前に会ったミチルの娘を思い出した。音羽も、耳の横で髪の毛を二つに結んでいたっけなと思う。
何度か仲間と寄ってくれていた石倉舞が、ミチルと音羽を連れてラ・マンチャに来たのは1月の終わりだった。「ミチルが落ち込んでるから、美味しいもの食べさせてやってよ」と舞は言った。
ミチルと舞には、鳥取和牛のタンシチューと春菊のミモザサラダ。音羽には、地鶏のササミやブロッコリーを使った玄米リゾット。
「わあ、全細胞が喜ぶやつだ!」
舞が大げさに言い、ミチルも「ほんと美味しそう。やっぱり田所くんは料理人だね」と言ってくれた。そうか、俺は料理人かあ――と一瞬顔がにやけたが、元の夫から娘を渡すよう迫られているミチルの状況はちょっと深刻らしい。
「毎日のようにメールが来るんでしょう?」
「1日おきくらいだけどね、長文メールでこんこんと説得してくるの。だんだん、そのほうがいいかなって思うようになってきた」
「ダメだよ。そんなの相手の思うツボじゃないの」舞が低い声で言う。
「でもさ、音羽が大学行きたいとか海外留学したいとか言っても、わたしじゃ無理なんだよね。向こうなら大概の望みは通るから……」
「うーん、誰かいい人が音羽のパパになってくれたらいいのにね」
「そんな物好き、いないって」
音羽を見つめるミチルの目が潤んでいる――ように見えて、大河は慌てて厨房へ戻った。ちょっとヤバい感情が込み上げそうになる。
中学時代のミチルは学級委員もやって、やたらと頑張り屋だった。確か、医者になりたいと言っていたような気もする。<女の子>という感じがあんまりしなくて、そのぶん話しやすかったのだが――。
マーケットを出て水辺に立つと、とりだい病院がすぐ目の先に見えた。あの建物のどこかで、今日もミチルは頑張っているんだろうなと思う。
――誰かいい人が音羽のパパになってくれたら。
舞の言葉が耳によみがえる。水墨画のような風景の中を、白鳥の群れが水鳥公園の方へ飛んでいった。
※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
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