張りつめていた空気が少しゆるんで、風に甘い匂いが混じっている。水仙かな、沈丁花かな、と思いながら、ミチルは音羽の手を引いて歩く。
3ヶ月に1度の、元夫に音羽を合わせる日だった。休みの日を伝えると、その日はエール広場で「地ビールフェスタ」があるから、そこに連れてきてほしいと言われた。
エール広場は、髙島屋デパートに隣接する屋根付きのスペースだ。広い駐車場の一画に芝生が張られていて、イベントやマルシェの会場として使われることが多い。屋根があるから、天気が悪くても炎天の日でもオーケーな広場だけれど、
「小さい子を連れて地ビールフェスタって、おかしいでしょう」
そうメールを送ると、「大丈夫。子ども連れもけっこう来るらしいし、うちは今回初めて出店するけど、音羽が食べられるものも出すから」と返事があった。
「音羽が食べられるものって?」
「大豆ミートの唐揚げとか、米粉と豆乳を使ったケーキとか。宿泊客の中には、アレルギーを持つ人やベジタリアンもいるからね。食材が制限されても、美味しさの可能性は無限であることを知ってもらいたいんだ」
こういうところが「ザ・やり手」なんだよなと思う。木島が経営する宿はどこもそれなりに高いけれど、ネットで見るかぎり満足度もかなり高い。飽くなきチャレンジ精神の人なのだ。
木島は5月に結婚するそうで、できればそれまでに親権移譲をしてほしいと言われている。新しい生活を、音羽を含めた4人でスタートさせたいのだそうだ。
今は3月。ミチルはまだ迷っている。気持ち的には完全に「NO」なのだが、音羽の将来にとってどっちがいいのかと考えると、わからなくなってしまうのだ。大人になった音羽から、もし「ママの選択は間違ってた」と言われたら――。
「今日はパパ、何を持ってきてくれるかなあ」
つないだ手を揺らしながら音羽が言う。おもちゃや洋服など、木島はいつも土産を用意して現れる。今日着ているワンピースも、木島がプレゼントしてくれたものだ。プリントされたミモザのイエローが春そのものという感じで、音羽によく似合っている。悔しいことに、元夫は服選びのセンスも悪くない。
エール広場は、さまざまな年代の人たちでにぎわっていた。地ビールフェスタは、10年以上続く米子の定番イベントらしいが、近年は市内の飲食店が新作料理をアピールする場にもなっている。お試し料金で提供されるので、それを目当てに来る人も多いようだ。
「あ、パパだ」
キッチンカーのそばで手招きする木島に向かって、音羽が駆けていく。「またあとで迎えに来ます」と言って、ミチルはその場を離れた。
ふだんはなかなか行けない髙島屋で靴やバッグを見てまわり、ガラスケースの中のジュエリーで目の保養をする。髙島屋とエール広場の間は、「えるもーる」と呼ばれる歩行者専用のアーケードで、広場に面して小さなステージが作られている。
5人ほどのグループが軽やかなジャズを演奏していた。それを聞きながら飲食を楽しんでいる人たちもいる。
エール広場に戻ったとき、1台のキッチンカーの中に田所大河の顔が見えた。一瞬目が合ったけれど、ミチルは気恥ずかしさから黙って通り過ぎた。お客さんも何人か並んでいて、忙しそうだったし。
地ビールと串カツを買い、空いているテーブルに座る。ビールを一口飲んでカツを頬張ったとき、「矢野さん、あの……」と後ろから声をかけられた。
「ああ田所くん、ちょっとびっくり。お店は? 大丈夫?」
「うん、バイトの子がいるから。矢野さん、あのさ……」
下を向いて言いづらそうにしている大河を見ると、中学時代を思い出す。やさしいし、人の悪口を言ったりしないから、女子の間ではけっこう人気があったっけ――。
「なに? 同級生のよしみで何でも聞くよ」
「あの、お、おとは……」
「おとは?」
「ああ、いや、おととい、祖父のところに行ったら少し喋れるようになってたんだ」
「ほんとに? それはよかった! リハビリ頑張られたんだね」
「う、うん。それと、米粉のピザを作ってみたんだ。チーズの代わりに長いもを使ってるから、音羽ちゃんも食べられると思う」
大河は四角い紙箱を差し出した。まだ暖かく、開けるといい匂いがする。
「ありがとう。前からピザが食べてみたいって言ってたから、きっと喜ぶ」
木島グループのキッチンカーに戻ると、音羽はプレゼントされたらしい犬のぬいぐるみと話していた。AI搭載だから、かなりの会話ができるようだ。
「でっかいお友だちがピザをくれたの。音羽も食べられるピザだよ」
やったーと音羽が声を上げたとき、姿を消していた木島が現れて、「それ、田所大河のことか」と聞いた。ミチルがうなずくと、木島は箱を取り上げてピザを一切れ食べ、そして箱ごと近くのごみ入れに放り込んだ。
「何をするんですか!」
「どこの誰だかわからん奴が作ったものなんか、音羽に食べさせられるか」
「田所くんのこと知ってるでしょう。センスがいいから、観月楼に誘ったと言ってたじゃない」
「だから嫌だ」木島は静かな声で、吐き捨てるように言った。
ミチルの中で何かがはじけた。それはたぶん、離婚を決めたときと同じものだったかもしれない。
「音羽は、この子は、あなたになんか渡しません。絶対に渡さない!」
音羽を抱き上げると、ミチルは走るようにして広場から離れた。えるもーるのステージは、フルートとクラリネットのアンサンブルに替わっていた。
※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
次回 #09 彫刻ロード は9月9日(土)更新。乞うご期待!
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