「本日のランチ3 真鯛のカルパッチョ1 アオデガニのスープパスタ2」
厨房のモニターに映るオーダーを横目に見ながら、田所大河は魚をさばき、フライパンをゆすり、ソースの味を確認する。タイマーがピピピと鳴り、「パスタ茹で上がりました!」とアルバイトの青年が言う。「了解」と答えてソースパンにパスタを移し、手早く混ぜ合わせる。
ウォーターフロントの「ラ・マンチャⅡ」がオープンして2か月余り。店長を任された大河は、1日の休みもなく厨房に立ってきた。
客席数20ほどの小さな店だが、任された喜びとプレッシャーは、夜空を埋める大玉花火よりも、たぶん大きい。店休日である火曜日にも店に来て、夜遅くまで料理の試作を繰り返してきた。
「じいちゃん、おれ、店を任されるんだ。じいちゃんに美味いって言ってもらえるように頑張るから」
オープン前、施設を訪ねて祖父に言うと、「そげ……か。よか……たな。がん……ばれ」と励ましてくれた。まだ細かく刻んだものしか食べられないが、いつか自分の作った料理で祖父を驚かせたい。それまでにもっと腕を上げないとな、と思う。
しかし――6月初めのその火曜は、午後5時には切り上げるつもりだった。1か月前、矢野ミチルから「話す時間あるかな」とメールが来ていたのに、お互いの時間を合わせることができなかった。ようやくその日の夕方、マッチングできたのだ。
音羽のこと、どうなったんだろう。
地ビールフェスタのときにも聞こうとしたのだが、ドギマギして祖父のことに話をそらしてしまった。試行錯誤して作ったあのピザを、音羽は喜んでくれただろうか――。
いや、音羽よりも本当はミチルに会いたかった。新しいメニューを試作するとき、ついミチルが喜んでくれるかどうか考えている自分に、大河は戸惑っている。
勤務を終えたミチルは、米子城山の登り口で待っていてくれた。中海に沿った遊歩道をふたりで歩く。音羽は、保育園に時間延長をお願いしてあるのだという。
「店長なんてすごいね。すっかり料理人って感じがする」
ミチルに言われて、「いや、まだ慣れなくてアタフタしてるよ」と大河は頭を掻いた。アタフタしているのは事実だが、1年前と比べると少し自信がついてきたのも確かだ。自分が作った料理を喜んでもらえる。それがたまらなくうれしい。
駅前まで続く遊歩道には、所々に石の彫刻が置かれている。かつて開催されていた、「米子彫刻シンポジウム」で制作された作品たちなのだそうだ。だから、この遊歩道は「彫刻ロード」と呼ばれている。彫刻を見ながら散策する人も多い。
「この彫刻、音羽が好きなんだよね」
ミチルが立ち止まったのは、膝を抱えるウサギ人間と、それを見守る天使っぽい彫刻の前だった。たぶん、「因幡の白兎」伝説をモチーフにしているのだろう。なるほど、可愛くて心なごむ感じの彫刻だ。
「田所くん、3月の地ビールフェスタで、音羽のこと聞こうとしてくれたでしょう」
あ、ばれてたんだと思う。「気になってたから。ピザ、どうだったかなあ……」
「あ……うん、すごく美味しかった。音羽、めっちゃ喜んでたよ!」
それから「少し座ろうか」と言って、ミチルは藤棚の下のベンチを指さした。
晴れていれば、日没が中海をオレンジ色に染め始める頃だが、あいにく曇り空だった。それでも、凪いだ湖面は美しい。
「音羽は今まで通り、わたしが育てる……。いろいろ考えたけど、そう決めたの」
「そっか。それ聞いてちょっと安心した」
「どうして?」
「いや、矢野さんと音羽ちゃんが離れるのが想像できなかったから、心配してたんだ」
「ありがとう。ただね、それならこの先の養育費は出さないって言われちゃったの。向こうは最近結婚して、新しい家族ができたから」
「そういうのって、家庭裁判所に訴えることができるんじゃない?」
「うん……でもそれはしたくないんだよね」
そこで会話が途切れてしまった。何か言わなくては――。何か、じゃなくて大事なことを言わなくてはいけないと思うが、タイミングがつかめない。ミチルはイヤホンで何かを聞いている。
「田所くんもどう? 懐かしのメロディーだよ」
アルコールティッシュで拭いてくれたイヤホンを耳に入れる。「ノラ猫なんかもういない」で始まる、十年くらい前の曲だ。ヒットしたかどうかは知らないが、大河はよく聴いていた。
「ノラ猫なんかもういない/でも僕らがそうだ、ノラ猫だ/冷たい雨に打たれても/焦げつく日差しに焼かれても/まだ生きてるぜ、ノラ猫は」
ふいに何かで殴られたような気がして、両目から涙が流れてきた。「どうしたの……」とミチルが心配そうに聞く。
「思い出した、借りた1000円のこと……。成人式が終わって米子駅に行ったら、工事中の鉄骨の陰に仔猫がいたんだ。2匹が寄り添って。見るからに弱ってたから、同窓会のあと、借りた1000円で牛乳とフードを買って……」
「そうか、猫かあ……」
「実家に連れて帰ろうかと思ったけど、おれが面倒みれるわけじゃないし、ともかく明日になってからって……。でも次の日行ってみたら2匹とも……。おれが1日延ばしにしたせいで……」
どうして忘れていたのか。あのときのショックは相当なものだったはずなのに――。
「たぶん、防衛機制が働いたんだと思う。つらいことを思い出さないように、抑え込んでしまう力がね」
ミチルはそう言って、大河の手に自分の手を重ねた。看護師としてのケアなのか、愛情表現なのかわからなかったが。
「おれ、これからも音羽ちゃんのでっかい友だちでいたい」
思い切って大河は言った。
「ありがとう。友だちでいてやって」
「これから先、ずっとだよ」
重ねられたミチルの手を握る。心臓がバクバク音を立てる。でも、10年前のような後悔はもうしたくない。
「それって……どういう意味……?」
ミチルが驚いたような顔で大河を見る。
老夫婦に連れられたゴールデンレトリバーが、ゆっくりと2人の前を通り過ぎていった。
※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
次回 #10(最終話) がいなロードⅡ は9月16日(土)更新。乞うご期待!
日本海新聞ホームページにて毎週土曜日に更新。