7月のその日、田所大河(たどころ たいが)はキャリーケースを転がしながら、米子駅の南北を結ぶ空中通路「がいなロード」を北口に向かって歩いていた。「がいな」とは米子弁で〈大きな〉を意味する言葉だ。
側面のガラスを通して夕焼けが差し込む。オレンジゼリーみたいな色だ。透明なゼリーの中を人々が行き交っている。停車中の普通列車が眼下に見え、さっき降りた特急やくもが西へ向かって滑り出ていった。
ロードの中央に、「祝 新米子駅開業10周年」の横断幕が掲げられている。
大河が高校を卒業して米子を離れるときには、まだ以前の駅が残っていた。成人式のときは工事中だった。新駅が完成してからも何度か帰ってきたけれど、そのたびに見知らぬ駅に降り立ったような気がした。
今は――12年間過ごした神戸を引き上げてきた今はどうだ?
やっぱりまだ知らない駅のような気がする。生まれ育った街の駅なのに、どこかよそよそしい。いっぱしの料理人になるという目標に挫折して、何のあてもなく戻ってきたせいかもしれないが。
横断幕の下を通ったとき、どこかで見たことのある女性とすれ違った。
どこで会った人だっけ。そう思った瞬間、「TT!」と言われてびっくりした。田所大河だからTT。中学時代のニックネームだ。
「あ、いや田所くんだよね。矢野(やの)です」
そうだ、中学で一緒だった矢野ミチルだ。あの頃はちょっとふっくらしていてカピバラっぽい子だったけど、ほっそりした今は、なんだろう、シマリスみたいな感じ?
「お久しぶりです。中学以来だから、ちょっとわかんなかった」
「成人式でも会ったじゃない。まあ10年前だけど。あ、そうだ、成人式の後の同窓会で1000円貸したの覚えてる?」
「え、おれ1000円借りたっけ?」
「うん、帰りぎわに1000円貸してくれ、こんど会ったら必ず返すからって。すっごい真剣な顔だった。TTは覚えてないの?」
覚えてない。たしかに成人式の後、駅前の居酒屋で中学の同窓会があった。酒が解禁になってはしゃいでいる奴が多かったし、大河もビールやチューハイを飲んだはずだ。酔っぱらっていたのだろうか。
我ながら情けない。あの頃、Tを二つ並べた顔文字は〈泣き顔〉や〈情けなさ〉を表すアイコンだった。昔から優柔不断で要領が悪い。ホテルの厨房で10年働きながら、調理補助から上へ行けなかったのは、たぶんそんな性格のせいもある。
「すみません。今返すよ」
大河が財布を取り出そうとすると、「もし時間あったら、北口でラーメンでも食べない?」とミチルは言った。「ちょうどお腹すいてるし、お金で返されるより、ラーメンご馳走してもらうほうがいいし」
駅舎の正面はガラス張りになっていて、2階のフロアから駅前を見通すことができる。
以前より緑が増えたような気がした。駅前通りの銀杏並木。北口広場のケヤキ。脇の通りに植えられているのはハナミズキだろうか。駅前通りには赤や茶色のパラソルが並び、人々がその下で飲食を楽しんでいる。夏の夕方に、外で飲むビールは最高だろう。
「TTはどこかへ行くの? キャリー引いて、旅人みたいだけど」
「昔のあだ名はカンベンしてほしいな」
「あ、わかった。ごめんね」
「さっきの質問だけど、その逆。神戸から戻ってきたんだ。今日からまた米子の住人」
「おー、それはまた奇遇。では、勇者の帰還を牛骨ラーメンで祝いましょう」
おどけた口調で言うミチルの後について、大河も北口広場に隣接する「牛骨ラーメン横丁」に入る。勇者って嫌味かよ、まあいいけど……。
6、7軒が並ぶ横丁は、木の引き戸があったり、赤い提灯が下がったりして、なかなかレトロな雰囲気だ。
「牛骨ラーメンって全国的に人気だけど、もともとは鳥取県の中西部が発祥なんだって。知ってた?」
冷たい水で喉を潤しながら、大河は「うん。これでも料理人――を目指して、くじけた男だから」と答える。
「そうなんだ。人生いろいろあるよね」
カウンターに出された牛骨ラーメンは、醤油味だった。スープに独特の甘みとコクがあり、それが醤油の風味とよく合う。地元の小麦を使っているという麺も、つやつやしたチャーシューも、新鮮なネギも、何もかもがおいしかった。
ミチルは、とりだい病院の看護師をしていること、1年前に離婚して3歳の娘を育てていること、普段は保育園に預けているが、今日は母親がみてくれていることなどを話した。
ラーメンをすすりながら同級生の身の上話を聞くのは、なんだか妙な気分だ。30年生きてきただけでも、人生いろいろある。
店を出ると、駅前広場に置かれた鉄道のオブジェがライトアップされていた。銀河鉄道をイメージさせるオブジェが、大河は子どもの頃から好きだった。
「ねえ、10年前の1000円、何に使ったの」
「いや、覚えてない」
「でも真剣な顔してたよ。貸してくれなきゃ死ぬ、みたいな。田所くんのあんな顔見たことなかったから、ソッコーで1000円出したもん」
大河自身が知りたいくらいだ。優柔不断で、何かと人任せな自分が、なぜそんなに真剣な顔で頼んだのか。なぜ1000円が必要だったのか。
駅前通りを実家に向かって歩く。父も母も、一人息子の帰りをしばらくは歓迎してくれるだろう。たぶん祖父も――。
振り向くと、米子駅が夏の宵に白く浮かび上がっていた。
(7月25日付 日本海新聞 掲載)
※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
次回 #02 米子城山 は7月26日(水)更新
第4話以降は日本海新聞ホームページにて毎週土曜日に更新。