#02 変わる景色と変わらない景色 城山から見えたものは

米子城山

 

  7階病棟の窓からは、真夏の陽を受けた中海が見える。きらきら光る湖面はまるで銀紙を貼ったようだ。

 米子港ウォーターフロントを出た小型船が、米子駅へ向かって加茂川を遡っていく。安来方面からも船が近づいてくる。

 それを横目で見ながら、矢野(やの)ミチルはカートを押して担当の病室へ向かう。

 

 ミチルが働くとりだい病院は、この春に全面建て替えが完了した。今日の中海と同じように、すべてがピカピカだ。鳥取県西部の基幹病院であり、高度な医療を行う病院だけれども、「私たち看護師の一番の務めは、患者さんに寄り添い、患者さん自身の治癒力を上げることです」と師長さんは言う。

 それは、看護学生時代にも言われてきたことだった。医療やITの技術が進んだおかげで、救える患者さんは確実に増えているが、同時に人間だからこそできる看護が求められている。コミュニケーションは何より大事だ。

 とはいえ、それができない患者さんもいる。4人部屋の奥にいる田所修造(たどころ しゅうぞう)さんもその一人だ。

 87歳の田所さんは、7月20日の夜に救急搬送されてきた。重い脳梗塞で、幸い一命は取りとめたものの、2週間たった今も意識は元に戻っていない。

 大河(たいが)の祖父だと知ったのは、田所さんがICUから一般病棟へ移ってきた日だった。以来、一日も欠かすことなく見舞いにやってくる。「おれ、暇だから」と言っているけれど、本当は心配なんだと思う。

 ベッドとベッドの間には、天井から半透明のスクリーンが下がっていて、そこに患者さんの好きな映像を映し出すことができる。小児病棟ではアニメを観たり、スクリーンにお絵描きをしたりする子が多い。

 3歳になったばかりの娘の音羽も、1歳の頃に少しだけ入院したことがある。うどんを食べて、ショック状態になってしまったのだ。小麦粉と卵に強いアレルギーのあることがわかり、音羽はもちろん、ミチルも食べないようにしてきた。

 だから、大河と食べた牛骨ラーメンは久しぶりの味だった。

 点滴をチェックし、田所さんの顔や手をきれいにしたところで、「今日も暑いね」と大河が入ってきた。

「神戸だって暑かったでしょ」

「暑かった。車の屋根で目玉焼きができるくらい」

「やったの?」

「いや、同僚がやって、なぜかおれが先輩に殴られた。おまえだろうって、グーで2発」

「うわ、要領悪い」

 このところ毎日のように顔を合わせるせいか、中学時代の親しさが戻ってきたような気がする。まあ親しいといっても、話しやすいクラスメイト以上ではなかったけど――。

 その日は夕方までの勤務だった。「城山に登ってみない?」と大河に言われ、「あと1時間待てる? あと、子どもが一緒でもいい?」とミチルは聞いた。

「もちろん。ロビーで待ってるよ。書店やベーカリーもあるし、全然退屈しない」

 城山に登るなんて、いつ以来だろう。病院のすぐそばにあるのに、もう何年もご無沙汰していた。

 音羽(おとは)を預けている保育園は、病院の敷地内にある。「ママの友だちだよ」と紹介すると、背の高い大河をしばらく見上げてから、「でっかい友だちだねー」と言った。

 その言い方がおかしくて2人で笑う。音羽はおりこうさんで、食物アレルギーを除けば、育てやすい子だと思う。

 城山の森に入ると、外の暑さが嘘みたいにひんやりしていた。ヒグラシが鈴を振るような声で鳴いている。半分くらい登ったところでしゃがみ込んだ音羽は、「でっかい友だちがおんぶしようか?」と大河に言われると、こっくりうなずいた。

 

 天守跡に立つと、360度のパノラマが広がる。大山から米子の街並み、弓ヶ浜半島、

夕焼けに燃える中海や島根半島――。ああ変わらない、と思う。変わらない景色があることに安心する。

「これ食べる? さっき買ったばかりだよ」

 大河が、小ぶりのパンを音羽に差し出した。「ごめん、ダメなの」ミチルはその手を押しとどめる。「この子、食物アレルギーがあるの。とくに小麦と卵がアウト」

「そっか。ごめんね」

「ううん、こっちこそ。せっかく買ってくれたのに」

 あずまやのベンチに座ると、音羽はミチルの膝の上で水筒のストローをくわえた。柔らかい髪の、甘い汗の匂いが鼻をくすぐる。

「お祖父さん、心配だね」

「うん……。おれが米子に帰ってすぐだったから、なんか責任感じちゃって」

「責任? どうして?」

「じいちゃん、和食の料理人だったんだよ。皆生温泉の旅館で、料理長やってたらしい。だからさ……」

 ああ何となくわかる、大河の感じている〈責任〉が――。本当は、一人前の料理人になって胸を張って帰りたかったんだろうな。

「なんの慰めにもならないけど、わたしも、この子に悪いなって感じてる。片親にしちゃったの、わたしのせいだもんね」

「矢野さんは、おれの100倍がんばってると思うよ」

「ときどきしんどくなるけどね……。お祖父さん、きっとよくなるよ」

「うん、ありがとう。よろしく頼みます」

 頭を下げる大河を見て、ミチルは10年前の同窓会を思い出した。1000円札を出したときも、こんなふうに頭を下げられた。

「ありがとう。これであの子を助けられるよ」

 大河がそう言ったのを覚えている。あの子って誰だろう、彼女かな、でも1000円で彼女を助けるって大げさだなと思ったっけ。

 空を仰ぐと、入道雲が朱色に染まり、心地いい風が吹き過ぎていった。

(7月26日付 日本海新聞 掲載)

 

※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

次回 #03がいな祭 は7月27日更新。

 

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