尾高城跡を史跡に 米子城跡に続き市内城郭2件目 築城変化知る貴重資料

 国の文化審議会(佐藤信会長)は20日、尾高城跡(鳥取県米子市尾高)を国史跡とするよう盛山正仁文部科学相に答申した。2006年には米子城跡が国史跡に指定されており、市内の城郭では2例目。空堀や土塁が状態良く残っているだけでなく、当時の築城技術では珍しい石垣が見つかっていることなどから、当時の築城の変化を知る貴重な資料として評価された。

 尾高城跡は、東西300メートル、南北400メートルの規模に本丸や方形館など九つの郭(くるわ)が配された戦国城郭で、1602年ごろに米子城が完成した後、廃城となったとされる。戦国時代の鳥取県西部を舞台とした合戦で大きな役割を果たし、山陰地方の覇権を狙っていた出雲の尼子氏と中国地方の覇者として君臨した毛利氏による攻防戦が幾度も繰り広げられた。

 今まで未調査だった本丸と二の丸は市が土地所有者の承諾を得て昨年1~8月に発掘調査を実施。建物跡や堀のほか、当時としては先進的な築城技術だった石垣の跡が見つかった。これまで土でできた山城と認識されていたが、近世的な城郭に変貌を遂げていた一面が明らかになった。

 本丸の北側の石垣は、堀底からの高さが最大で4・2メートル。人為的に崩した跡があり、江戸幕府が大名の城を規制する一国一城令によって廃城となった様相が残る。堀底には大きな柱穴が見つかり、二の丸から本丸に渡る橋が架けられていたとされる。

 本丸の東と南は高さ最大約6メートルの土塁で囲われている。西側には石を用いた基礎が見つかり、白壁の築地塀(ついじべい)と門が築かれていたことが分かった。塀は平野から見える位置にあり、城の威容を敵や領民に見せつける近世的な役割を担っていたとされる。

 答申を受け、伊木隆司市長は「歴史と文化に根差したまちづくりの推進に大きく寄与する。適切な整備を進め、市の歴史の魅力を伝えていく」とコメント。城郭研究者で滋賀県立大の中井均名誉教授は「尾高城は山陰の戦国史を物語る第一級の城郭で、国史跡指定にふさわしい」と評した。

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