太平洋戦争末期、広島、長崎両市に先駆け、米軍が実験台として使用した「模擬原爆」による犠牲者を悼む住民主催の式典が投下から78年に当たる26日、慰霊碑のある大阪市東住吉区の恩楽寺であった。参列者が静かに手を合わせ、非戦の誓いを新たにした。
模擬原爆は「長崎型」のプルトニウム原爆に似せた“パンプキン(かぼちゃ)”と呼ばれる形状に、通常の爆薬を詰めた重さ約4・5トンの大型爆弾。当時の米軍資料などから、終戦までに全国で約50発を投下したことが分かっている。
戦後、市がまとめた「昭和20年大阪市戦災概観」によると、同寺北側に着弾して7人が死亡、73人が重軽傷を負ったとされる。
せみしぐれの下、本堂では約120人が投下時刻の午前9時26分に合わせて黙とうをささげた。広野国民学校(現摂陽中)の教員だった龍野繁子さん(98)は親しかった姉の友人をこの空襲で失った。当時、自身は勤労動員の学徒を引率中、九死に一生を得た体験を報告。「どうか武器を使った争い事がない世の中に」と力強く語りかけた。
また、10校を超える小中学生が「誓い」を読み上げ、市立田辺小5年の児童らは「平和への思いを次の世代へつなぐため、一日一日を大切に生きていきたい」とつづった。