ERIKOさんが見たウクライナ 「勝利しか平和なし」 続く緊張に疲労感も

 定住旅行家として活動するERIKOさん=米子市出身、東京都在住=がロシアによる侵攻が続くウクライナでの約3週間の滞在を終え、先日帰国した。侵攻開始から約1年半。現地で目の当たりにしたのは非日常であるはずの戦争が日常になった生活と、疲弊した市民の姿だった。

ウクライナの写真を見ながらウクライナ国民に思いをはせるERIKOさん=2日、都内

 7カ国語を操るERIKOさんはこれまで50カ国以上で100以上の家庭にホームステイ。現地の生活に溶け込み、ありのままの暮らしや住民との交流を書籍や寄稿記事、SNS(交流サイト)で発信してきた。

 今回、ウクライナの戦地取材で案内役を務めている知人の計らいで滞在のめどが立つことに。「現地の人がどう暮らしているのか、この戦争をどう考えているのかを直接聞いてみたい」と思い、危険を承知で渡航を決断した。

仕事にならない

 9月上旬、ポーランドからバスでウクライナに入国。前線に近いザポロジエと中部クロピヴニツキー、首都キーウの3都市に約1週間ずつ滞在した。

クロピヴニツキーの学校を訪問した際、生徒たちと撮った写真。前線の学校では地雷の見分け方や応急処置の仕方を学ぶ特別授業が行われている(ERIKOさん提供)

 最初に戦争を肌で感じたのはザポロジエに向かう列車内で銃を持った兵士を見た時だった。前線に送り込まれる兵士たちで、彼らはザポロジエ駅に着くと駅前に止まった軍用車両に乗り込み、戦線へ旅立った。

 ザポロジエでは滞在先家族の農作業を手伝いながら過ごした。前線から約60キロしか離れていないため、銃撃やミサイルの音が響き、実際に1日1~2発は町にミサイルが落ちた。夜は寝られず、シャワーを浴びる時も気が気でなかった。

 驚いたのは滞在中、空襲警報が何度も鳴ったが避難する人を一度も見なかったことだ。「いちいちシェルターに潜っていたら仕事にならない」と聞かされた。侵攻当初はシェルターで生活したり、車の中で寝泊まりする人もいたようだが、国民一人一人にも生活がある。「普通の生活の中で、たまに空襲警報が鳴って非日常になる。日本でいう地震の感覚に近い」(ERIKOさん)。警報の中でも大人は仕事を続け、子どもは防空壕(ごう)で授業を受ける。長期化する戦争に、国民はどこか折り合いを付けて暮らしているように見えた。

首都キーウの街並み。空襲警報が鳴ること以外は戦時中とは思えないほどだったという(ERIKOさん提供)
爆撃を受けたザポロジエの学校。爆撃は夜で、宿直の教諭が犠牲になった(ERIKOさん提供)

平和より勝利を

 何より衝撃を受けたのは、現地の人に「早く平和になってほしいですね」と言葉を掛けたときに返ってきた一言だ。「平和ではなく勝利を」。1人や2人ではない。話を聞いた人の多くが「この戦争が終わってほしい」ではなく「この戦争に勝ってほしい」と願っていた。大国の脅威にさらされ、絶えず戦禍に見舞われてきたウクライナ。国民に強く根付く「勝利の後にしか平和はない」という意識を垣間見た気がした。

 滞在先家族の言葉も心に焼き付いている。「私が悲しむと負けたみたいになる。弟の死が報われない」。その女性は実の弟が前線で戦死。だが弟の話をする際も全く悲しむ様子を見せなかった。ERIKOさんは「個人の悲しみは戦争が終わった後にしか来ないのかもしれない」と推し量った。

クロピヴニツキーにある戦死者の墓地。墓にウクライナ国旗が立てられている(ERIKOさん提供)
一般家庭のキッチンにある保存庫。戦争を機にシェルターとして使われるようになった(ERIKOさん提供)

 戦時下でも気丈に振る舞い、たくましく生活しているように見えるウクライナ国民だったが、不意にこぼす言葉には疲労感がにじんだ。「もう戦争に疲れた」。毎日のように発射されるミサイル、響く警報。昼夜問わず気を張った状態が続いている。精神衛生上、スマートフォンの警報アプリを切っている人や戦争のニュースを見ないようにしている人もいたという。

 現地で直接話した全員が発した言葉がある。「戦争が起こるとは全く思わなかった」。ERIKOさんは「日本も例外ではない」と警鐘を鳴らす。

 ERIKOさんは今回の滞在を「これまでの中でも最も強烈な経験の一つだった」と振り返る。今回の経験を書籍などで発信しようと考えている。

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