四十二丸(よどにまる)城跡は、倉吉市街地の西端、明倫小の裏手にある通称水道山と呼ばれる標高90メートルほどの丘陵に所在します。また、西側には近接して小鴨川が流れています。
四十二丸城は、吉川元春書状によると、1570(元亀元)年、山中鹿之介らに率いられた尼子再興軍に攻め取られていた岩倉城を攻撃するため、毛利方の山田重直が入城した「淀城」と推定されます。
また、江戸時代中期に著された「伯耆民談記」には、打吹城の出城と記されています。打吹城跡の大手(正面)は、かつて西側であったと推定されており、大手に面するように四十二丸城跡が所在します。