「大阪日日新聞」は1950年に発足した日本女子プロ野球(最大25チーム)で球団「大阪日日シスターズ」を運営していた時期があった。日本女子プロ野球の第1号選手だった高坂(こうさか)峰子さん(89)=大正区=は日日シスターズをはじめ女子プロ3球団で投手、捕手、内野をこなす万能選手として活躍した。コロナ禍前までは元チームメート10人と「大阪シルバーシスターズ」を結成し、現役選手としてプレーを楽しんでいた。女子プロ野球の先駆者、高坂さんが歩んだ数奇な野球人生を紹介する。
野球との出合い
50年に発足した女子プロ野球は2年間だけ行われたが、その当時、関西を拠点にした主なチームは大阪ダイヤモンド、大阪日日シスターズ、神戸タイガースなど6チーム。高坂さんは大阪ダイヤモンド、レインボースターズ、大阪日日シスターズの3球団に所属した。
高坂さんと野球の出合いは50年。母美千代さんから高校2年生だった高坂さんに「峰ちゃん、今、女子野球の選手を募集しているらしいよ」と教えてもらったのがきっかけだった。当時、ソフトボールに夢中になっていた高坂さんは、軽い気持ちで「大阪ダイヤモンド」の入団テストに挑戦すると、249番と書かれた合格通知のはがきが届き女子プロ野球選手第1号となった。
入団後は高校も中退。東成区今里の神路公園のグラウンドで練習に明け暮れ、内野手からキャッチャー、投手までこなせるオールランドプレーヤーに成長した。
全国各地を転戦
好プレーヤーだった高坂さんはその後、新球団「レインボースターズ」に移籍し名古屋、静岡、岐阜、鳥取から松江と山陰方面へ遠征し、試合を繰り返した。遠征から大阪に戻った高坂さんは「大阪日日シスターズ」に引き抜かれ1カ月間、東京へ遠征し、さらに東京「上野駅」から青森へ夜行列車で移動。東北地方では酒店の組合の男性チームと対戦。
その当時を振り返り、「好きな野球が思い切りできて、いろんな所に行けて本当に幸せでした。勝敗にこだわるより楽しくプレーすることを優先していました」。
女子プロ野球選手としては、大阪日日シスターズが最後の球団となったが、「大阪日日新聞では1年間過ごさせていただき、後楽園球場では『東西対抗』という試合に出させいただきました。10対0で試合は負けましたが、照明の入ったナイターをさせていただいたことが、良い思い出に残っています」。
芸能人との花試合
遠征試合とともに多かったのが、芸能人との“花試合”だった。その対戦メンバーは新国劇の辰巳柳太郎さんや歌舞伎役者から映画俳優に転じた坂東好太郎さん、宇野重吉さん、月形龍之介さん、鶴田浩二さんら当時のそうそうたる芸能人だった。
「有名な方がバッターボックスに立たれた時は、塁へ出してあげねばなりません。私がキャッチャーをしている時に『なんとか、この人には長いことお客さんの前に出てもらおう』と思い、三振なさった時に、わざとボールを後ろにそらしたんです」と懐かしそうに話してくれた。