【歴史の小窓(14)】慶喜だったら真珠湾攻撃をしただろうか

徳川最後の将軍の光と影

  •  復元された水戸城大手門。徳川慶喜は幼少期を水戸で過ごした
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 幕末から明治の初めにかけては、戦国と並んで最も歴史ファンが多い時代だろう。坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作そして新選組の沖田総司など、挙げたらきりがないほど魅力的な人物がめじろ押しだ。私はというと、教科書と小説やテレビ、映画で身につけた知識ぐらいしか持っていないのでふさわしくないのだが、法政大名誉教授奥武則さんの「ジョン・レディ・ブラック 近代日本ジャーナリズムの先駆者」(岩波書店)を読んで、興味を覚えたことがあったので、この時代を取り上げてみたい。

 ブラックは、幕末の元治元(1864)年に来日し、横浜や東京の新聞界で活躍した英国人で、英字新聞の社説などに健筆を振るい、やがて日本語の新聞も創刊し、幕末・維新の激動期を目撃しながら明治13(1880)年、横浜で死去した。54歳だった。

 奥武則さんによるとブラックは、徳川幕府を高く評価していた。例えば、第14代将軍家茂が2回目の長州との戦いを計画していた慶応元(1865)年5月の社説では、「封建制度の盟主たる長州藩が、君主制原理の、したがって進歩の道を代表している将軍を打ち負かすようなことになったら、日本にとっても日本とわれわれの関係にとって...

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