鳥取藩最後の藩主・池田慶徳に仕えた家老の一人で、鳥取藩の行く末に大きく関わった荒尾成章の墓が、没後120年になる今年、倉吉市の勝入寺近くで発見された。晩年を同市で過ごし、顕彰碑が打吹公園内にあることは知られていたが、墓碑の場所は時代の移り変わりとともに分からなくなっていた。同市在住で三朝温泉病院の医師、浜崎尚文さん(66)が、倉吉市史をひもとき、探し当てた。
成章は1826年、岡山池田家の家老・土倉一昌の次男として生まれ、その後「米子荒尾」家の養子になる。51年に鳥取藩の家老職に任じられた。63年に鳥取藩の尊王攘夷派の藩士が京都で起こした本圀寺(ほんこくじ)事件では、対応に尽力し、68年の鳥羽伏見の戦いでは、いち早く新政府軍に参加する決断を下すなど、幕末に活躍。男爵の位を授けられた。
明治維新後の社会変化の中で職を失い、生活が困窮。最後は鳥取藩の藩祖が祭られる倉吉市の勝入寺近くでつつましく暮らし、1903年に78歳で没した。