先月取り上げた横光利一の『旅愁』は、前半の舞台がパリだった。「ブルム社会党の内閣が出現して日のたたぬ今日このごろ」「ベルリンのオリンピック競技がまだ後(あと)四日も残っている」といった言葉から、年は1936年だと分かる。ヨーロッパもアジアも情勢不穏だが、ナイトライフへの影響はまだ大きくなかったとみえ、小説中では、この街にとどまっている日本人たちが、カフェやダンスホール、レビュー館などさまざまな歓楽の場に繰り出していた。
彼らがモンマルトルあたりを徘徊したのと同じころ、地元のジャズ界では<フランス・ホット・クラブ5重奏団>というグループが注目を浴びていた。ギターのジャンゴ・ラインハルト、ヴァイオリンのステファン・グラッペリを中心としたストリング・バンドが演奏するのは、ジプシー音楽とスウィング・ジャズの要素が溶け合う新鮮で魅惑的な調べだった。そのスタイルは後の世代に受け継がれ、一つの流派をなすに至って今も世界中で愛されている。なお、<ジプシー>という言葉には差別的なニュアンスが含まれるとされ、近年は彼らの自称<ロマ>に言い換えることが多い。本稿もこのあとの地の文ではロマと書くことにするが...