【ネットオリジナル】〈デジタルアーカイブ あの日 あの時〉駅伝出場、石川県・遊学館高校を激励(2008、2010年) 創始者が倉吉市出身…縁をつなぐ

駅伝出場、石川県・遊学館高校を激励
 (鳥取県倉吉市、2008年10月4日、2010年10月2日)

 【概要】2024年1月1日に発生した最大震度7の能登半島地震。石川県を中心に大きな被害が出ている。金沢市の学校法人金城学園・遊学館高校は、毎年10月に鳥取県中部で開催される「日本海駅伝」「くらよし女子駅伝」の常連校である。創始者の加藤広吉(旧姓・小原=おばら)は同県倉吉市の出身だ。地元の遠縁らは倉吉入りした選手の激励会を開くなどしてきた。金沢と倉吉、駅伝が「縁」をつなぐ。

駅伝に出場する遊学館高校(石川県)の歓迎激励会=2010年10月2日、鳥取県倉吉市

 遊学館高校は1904(明治37)年、金城遊学館として創設された。金城女学校、金城高等女学校、金城高校を経て、1996年に遊学館高校に改称し、男女共学となった。120年の伝統を誇る、石川県の名門私学だ。

 かつては女子校だったため、硬式野球部の創部は遅く2001年。しかし、創部2年目にして夏の甲子園に出場し、ベスト8入りを果たす。その後もセンバツや夏の甲子園に出場し、躍進ぶりは高校野球ファンの目に焼き付いている。

 駅伝競走部は毎年10月に鳥取県倉吉市や三朝町、湯梨浜町で開催され、全国高校駅伝の〝前哨戦〟と呼ばれる「日本海駅伝」(男子)、「くらよし女子駅伝」の常連。2023年も伯耆路を熱走している。

加藤広吉・せむと女子教育

 金沢市の学校法人金城学園。金城大学付属西南幼稚園から遊学館高校、金城大学短期大学部、金城大学まで一貫教育を展開している。

 創始者の加藤広吉は倉吉市中河原の出身。石川県尋常師範学校で教べんを執り、1893(明治26)年、同じ教師だった加藤せむと結婚。女子教育の必要性を訴え、2人で幾多の苦難を乗り越え、現在の金城学園(加藤真一理事長)の礎を築いた。

加藤広吉氏

 『金城学園創立100周年記念誌―遊学の大地から』に、学園の生みの親である加藤広吉・せむの「物語」がある。

金城学園創立100周年記念誌『遊学の大地から』

 それによると、広吉は1866(慶応2)年、小原善三郎の次男として生まれ、のちに、せむと結婚するにあたって、加藤家の養子になった。

 広吉は広島の漢学塾から陸軍幼年学校に進み、1887(明治20)年に歩兵第七連隊陸軍歩兵二等軍曹として初めて金沢の土を踏んでいる。

 金沢で現役満期を迎えた広吉は、1892(明治25)年に石川県尋常師範学校体育科教師となり、教育者の道を進む。「体操」競技で実績を残し、ピンポン(卓球)や室内テニスなど16種の「遊戯」を改良普及し、若者の体力向上に努めたという。

 28歳の時、せむと結婚。2人は1904年、金沢市内に私塾・金城遊学館を開校する。生徒29人(うち女子21人)の船出だった。

 広吉は昼夜を問わず業務に励むが、病に倒れる。家には倉吉から呼び寄せた広吉の両親もいた。家計はいつも火の車だったという。

 1年後の1905(明治38)年、念願だった女学校設立の認可が下り、金城遊学館は私立「金城女学校」として再スタートを切る。

 しかし、広吉は41歳の若さで亡くなる。せむは夫の遺志を継ぎ、学校存続のため、働き、寄付金集めに奔走するなどし、女子教育一筋に情熱を注いだ。

広吉の遠縁、家系をひもとく

 広吉の父・小原善三郎(旧姓・野一色)、母・せんの墓は倉吉市内にある。県中部には遠縁にあたる家が何軒かある。

 北栄町妻波の阪本和俊さん(80)も小原家につながる。阪本さんの母・スマが広吉の伯母のひ孫にあたる。

 スマは生前、日本海新聞の取材に答えている(2005年8月6日掲載)。

 父の宗一と加藤せむが手紙のやり取りをしていたことを覚えており、祖父の平四郎の香典帳には、善三郎と並んでせむの名も記されていた。

 和俊さんは2002(平成14)年、広吉の小原家と父・善三郎が出た野一色家について、聞き取りなどを基に冊子「ルーツ ルーツ ルーツ(パート1)」を作成している。

阪本さんが作成した冊子『ルーツ ルーツ ルーツ』

 それによると、小原家は倉吉市を流れる小鴨川の西、小鴨地区の大地主で、旧倉吉町の境まで小原家の土地がたくさんあった。明治20年代までは中河原地区の3分の1が小原家の土地だったという。

 屋敷には七~九つの土蔵があり、使用人部屋もあった。ところが保証人となったことで全財産を処分。その後、苦労して屋敷周りの土地を買い戻したという。

 野一色家は初代頼母の子、采女(読み=うぬめ)が米子・久米城の城代家老を務めた。頼母は大柄で気丈な武士だった。お家断絶による城主交代後は、采女は拝領していた倉吉市福庭に住んだという。

 さらに2010(平成22)年、和俊さんは「同(パート2)」を作成する。郷土史家やゆかりの寺院を訪ねるなどし、小原家の家系図を完成させている。

 この中で、小鴨地区の大地主だった9代小原孫四郎について、「昔語り『小鴨長者』の主人公は孫四郎と3人の娘がモデルと思われる」と推察している。

孫の学園理事長が倉吉入り

 鳥取県中部の遠縁は、小原家の広吉が創設した遊学館高校の甲子園出場をわが事のように喜んだ。

遊学館高校の甲子園での活躍を願う縁戚を紹介する日本海新聞(2005年8月6日)

 2002年の夏の甲子園初出場ベスト8に続き、翌2003年のセンバツは3回戦、2004年の夏の大会は2回戦に進出した。

 「夏」連続出場の2005年8月、阪本スマは「今年も甲子園で活躍してほしい。家族で応援します」と、広吉とせむの教育への情熱が詰まった遊学館高校の躍進を願った。

 2008年10月4日。「第28回日本海駅伝」「第23回くらよし女子駅伝」出場のため倉吉入りした遊学館高校の激励会が倉吉市内のホテルであった。

倉吉市で初めて開かれた遊学館高校駅伝競走部の激励会(2008年10月5日)

 阪本和俊さんが呼び掛け人となり、倉吉市の長谷川稔市長ら有志が実現した。

 広吉の孫で金城学園理事長を務める加藤晃さん夫妻も初めて来倉。加藤理事長は「これを機会に互いの交流を深めていきたい」と、祖父のふるさとへの思いを語った。

 2010年10月3日に開催された両駅伝は節目の大会となった。日本海30回、くらよし女子25回。高校生209チームが出場し、男女とも遊学館高校の姿があった。

 前日の2日、同校の歓迎激励会が開かれる。県中部5市町の首長も出席し、各首長から選手に特産品などが贈られた。

 石田耕太郞倉吉市長は「記念となる大会に、(倉吉と)縁の深い学校の参加をうれしく思う。悔いの残らぬ走りと好成績を期待します」と激励した。

 加藤理事長夫妻に地元親族代表の武本香奈絵さんから花束が贈られ、理事長は「倉吉との縁の深さを実感している。親交を一層深めていきたい」と感謝の言葉を述べた。

 最後に、遊学館高校の健闘を祈り、出席者全員で万歳三唱した。

 ※文中・敬称略。肩書は当時。加藤広吉氏の写真は『記念誌』から、許可を得て掲載しています。

 ◆学校法人金城学園遊学館高校
 1904年設立。男女共学。普通科に特別、一般の進学コース、金城大学コースがある。生徒数は約1200人。硬式野球の強豪で、石川県の私学3強の一つ。バトントワリング部が2009年に全国制覇している。校訓は「教育とは 云うてきかすことではない して見せることでもない していることである」。金沢市本多町2丁目。

 ◆金城学園創立100周年記念誌『遊学の大地から』
 2005年11月発行。加藤広吉・せむ、加藤二郎、加藤晃の親子3代による「金城学園物語」を中心に、100年の歩みや学園の主な出来事を写真などで紹介。「良妻賢母」座談会、トーク「金城学園の未来像」などを掲載している。A4判、192ページ。

 ◆日本海駅伝・くらよし女子駅伝

 毎年10月、風光明媚(めいび)な鳥取県中部1市2町を舞台に開催される。男子の日本海駅伝は鳥取陸上競技協会、新日本海新聞社、南部忠平杯くらよし女子駅伝は倉吉市、鳥取陸協、新日本海新聞社が主催する。2023年は男子105チーム、女子62チーム=写真=が出場した。多くが全国高校駅伝に出場することから、都大路の〝前哨戦〟と呼ばれる。

能登半島地震へ心痛める縁戚

 加藤広吉氏の縁戚にあたる阪本和俊さん(80)=北栄町議=は日本海新聞の取材に答え、1日に石川県などを襲った能登半島地震を受けて「遊学館高校に通っている生徒の自宅にも被害が出ていると聞く。心配している」と話した。

阪本和俊さん

 阪本さんは毎年、日本海・くらよし女子駅伝で倉吉入りした生徒を激励し、縁戚の人たちと沿道で応援している。

 「広吉さんが苦労してつくり上げた遊学館は誇りであり、小原家の倉吉と加藤家の金沢の縁はこれからも伝えていくべきもの」とした上で、「地震で大変な状況だと思うが、学校の創始者のふるさとで行われる駅伝大会に今年もぜひ出場してほしい」と呼び掛けた。

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