米子の夏を彩る「米子がいな祭」が第50回の節目を迎える。市民参加型の祭りとして1974年に産声を上げ、山陰を代表する夏祭りの一つに成長した。ゼロから歩みを始めて、米子がいな万灯、米子がいな太鼓、やんちゃパレードなど、新しい物好きの米子にふさわしい名物イベントで進化していく。半世紀にわたる積み上げは、商都米子に活力を与え、市民の誇りとなる。山あり谷ありだったが、米子青年会議所をはじめとする民間団体を中心に、市民の熱い思いが祭りを支えてきた。コロナ禍も乗り越え、今夏、新たな歴史へ第一歩を踏み出す。これまでの祭りを日本海新聞の記事で振り返った。
第2回(1975年)
※日本海新聞休刊中のため掲載なし
第3回(1976年)
第4回(1977年)
<きょう、二日目の七日は、午後二時から午後六時まで初めて国道9号線を開放して、祭り最大の呼び物がいなパレードが練り歩き、・・・> この第4回から第9回まで9号線でのパレードが催された。
第5回(1978年)
第5回では初めてアドバルーンを使って祭りの告知をした。
花火大会は皆生海岸で行われた。
<大パレードのフィナーレに本場リオのカーニバルが特別参加。南国の強烈なリズムに乗って「ビバ!米子、ビバ!がいな祭」と大サービス。電飾城が夕闇に映え、祭りは最高潮に達した。>