歌人の枡野浩一さんが一度は諦めた芸人になるという夢をかなえるため、芸人養成所に入所した。挑戦する55歳の日々を、短歌を交えてつづる連載の第3回。
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〈解散の理由をうまく話せても死んだ命は生き返らない〉
芸人を目指す55歳と言うと驚かれるけれど、最初に目指したのは44歳の時だった。当時は面接を受ければほぼ全員が仮所属できたソニー・ミュージックアーティスツ(SMA)という芸人事務所に入って、コンビやトリオを経験した。
最初のコンビは相方が忙しい人なので、活動休止状態になった。二つ目のコンビはすぐに仲が悪くなり、相方の顔を見るたびに解散を考えるようになった。「解散という言葉を聞くと悲しくなるから言わないでほしい」と、事務所の先輩・錦鯉の渡辺隆さんに優しく怒られたくらいだ。
そんな僕らのコンビに先輩が加入してトリオになった。大きなライブに呼ばれるようになり、新宿末広亭でナイツさんと共演したこともある。
トリオで月に25本くらいライブに出るようになると、体力のない僕は原稿料を稼ぐこともままならず、健康状態も悪化した。いつも漫才の稽古をしていた、小さな子供たちのいる公園で「やめたい...